| 高空の勇者をご紹介するコーナー | |
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撃墜王(ACE)と呼ばれたパイロットたちのプロフィールを、ご紹介します。 イーグルでは、ここに紹介されたパイロットのサイン(直筆サイン)が 入った絵画作品も、取り扱っております。 |
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坂井 三郎 海軍中尉 1937年、中国戦線で、初撃墜を果たす。1941年、12月10日、フィリピン上空において コリン・ケリー機長のB-17を撃墜します。(敵に撃墜された最初の、B-17となりました。) ニューギニア、ダガルカナルの戦線では、アメリカの第8FG、第22BGのB-26爆撃機 などを相手に戦いますが、1942年8月のガダルカナル上空で右目を負傷します。 200回以上の空中戦を、戦い抜き、列機(Wingman)を、決して失わずに、基地に帰還 しました。撃墜数は64機です。 著書「大空のサムライ」は、海外でも翻訳され、ベスト・セラーとなりました。 The Legendary ZERO Pilot と呼ばれた坂井さんは、惜しくも昨年9月に84才で、この世を去られました。 |
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| \69,000 (2枚セット・額装済) | |
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エーリッヒ・ハルトマン大尉 (1922―1993)ルフト・バッフェ 1940年、ドイツ空軍に入り、'42年10月から、東部戦線のJG‐52で参戦します。 クルピンスキー中尉のウイング・マンとなり射撃技術に開眼し、終戦の日まで飛び 続け総出撃数825回、前人未踏の352機撃墜のスコア−を打ちたてました。 この間に、一度も負傷せず、また列機を1機も失わずに戦い抜きました。 ダイアモンド剣付き柏葉騎士鉄十字章を、授与されました。 |
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| <SOLD OUT> |
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アドルフ・ガーランド中将 (1912−1996) ルフト・バッフェ ドイツ空軍最年少の中将でありながら、戦闘機隊の総監として、全作戦の指揮をとリました。 高位のポストについて、飛行差し止めを受けた後も、前線を飛びつづけ、スコア−を 伸ばします。戦闘機運用の手法による対立により、ゲーリングより総監を罷免された後は、 JV-44の一隊長として、Me262で終戦まで戦い続けました。 ゲーリングに向かって、 「私の部隊にも、スピットファイアーを下さい。」といった話は、有名です。 ダイアモンド剣付き柏葉騎士鉄十字章を、授与されました。 撃墜総数103機 |
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| \133,000 (額装済) カスタム額は別途(\13,000〜) |
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| \32,000 (額装済) | |
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ヨハネス・シュタインホフ大佐 (1913−1994) ルフト・バッフェ バトル・オブ・ブリテンで中隊長(4/JG52)となりそれ以降、戦線の拡大とともにロシア 戦線でU/JG52飛行司令官として戦います。ゲーリングとの対立により、最後は、JV-44で、ガーランドとともに、Me262で戦いスコア−は178機撃墜。 剣付き柏葉騎士鉄十字章保持者。戦後、NATO軍空軍総監を務めたあと退役。優れたリーダーとして、英米でも評価されています。 |
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| \78,000 (額装済) | |
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| \83,000 (AP版・額装済) | |
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ギュンター・ラル少佐 (1918− ) ルフト・バッフェ 1939年8月より、ドイツ空軍JG-52で参戦します。バトル・オブ・ブリテンの初期に 初撃墜('40.7月)をしたあと、東部戦線に移動、そこで、背骨を負傷しますが、9ヵ月後に不屈の精神力で、戦線に復帰します。優れたリーダー・シップと、操縦技術によりV/JG52 飛行隊司令になった後も、前線で戦い続け、総撃墜数275機(航空史上3位)のハイスコア−を樹立。 剣付き柏葉騎士鉄十字章を保持。戦後は、NATOドイツ国防軍代表を勤め中将で退役します。 |
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| \83,000 (額装済) | |
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エーリッヒ・ルドルファー少佐 (1917− ) ルフト・バッフェ ドイツ開戦の初期より、バトル・オブ・ブリテン、北アフリカ戦線、ロシア戦線と、戦況の変化とともに、たえず最前線で隊長として飛び続け、1000回以上の出撃と、222機の撃墜記録を持ちます。Me262でも12機(内B-17が10機!)を撃墜。 剣付き柏葉騎士鉄十字章 保持者。16回撃墜もされましたが、'43年11月のロシア戦線では、17分間に13機を撃墜した記録を持っています。 |
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| \79,000 (額装済) | |
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フーバート(ハブ)・ゼムケ大佐 米陸軍 第八空軍56FGの名隊長です。百戦練磨のドイツ空軍に対して、厳しい訓練と戒律 をもって、56FGの隊員を指導し、最後は、「ゼムケのウルフ・パック」として、ドイツ軍から恐れられる部隊にまで育てました。56FGは、おもにP-47で戦いました。 17機のスコア−を持ちます。56FGからは、多くのACEが誕生しました。 |
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| (稀少品) \73,000 (額装済) | |
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ロバート・S・ジョンソン大尉 米陸軍 '43年1月より56FGで戦闘に参加。91回の出撃で28機撃墜の腕前は、ハルトマン以上の ハイペースでの戦果です。合計で27機撃墜のスコア−は、米空軍4位の成績です。 |
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| \32,000 (額装済) | |
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フランシス・ガブレスキー中佐 米陸軍 ヨーロッパ戦線で28機撃墜、朝鮮戦争では、F-86で6.5機を落としたダブル・エース 合計34.5機は、アメリカで3位のエースとなりました。 |
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| \34,000 (額装済) | |
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チャールズ・E・イェーガー准将 米陸軍 '43年3月より363FGでP-51に乗り参戦します、フランス上空で撃墜された時は、 スペイン経由で脱出に成功し、4ヶ月後にイギリスに戻ります。その後、8ヶ月間に 11.5機を撃墜します。戦後は、テスト・パイロットとしてベルX-1で世界初の音速の 飛行に成功します('47.10.14)さらに、マッハ2の壁を越えた男としても有名です。 '75年、准将で空軍を退役しますが、テスト・パイロット顧問として、飛びつづけています。 |
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| (Sold Out) | |
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C.E.'BUD' アンダーソン大佐 米陸軍 '43年より357FGでP-51Bに乗りヨーロッパ戦線に参加します。天性のパイロットとして、 すぐに頭角をあらわし、116回の出撃で16機を撃墜し、戦後は、テスト・パイロットとして 120種類以上の飛行機をテストしました。 彼の愛機「OLD CROW」は、有名です。 C・イェーガ−とは、旧友です。'72年空軍を退役しました。 |
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| \34,000 (額装済) | |
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ジョニ−・ジョンソン大佐 RAF (1916− ) イギリス空軍のトップ・エースで撃墜した38機は、Me110の1機を除くとすべてが、単発 の戦闘機(Bf109、Fw190)です。 DSO3回、DFC2回の勲章を授与されました。 '66年に英空軍を少将で退役しました。すぐれた指揮官でもあり、著書「Wing Leader」の評価も高い。 アート・ギャラリー・イーグルは、J・ジョンソンの息子さんと、交流を持っています。 (ジョンソンのサイン入り特別バージョンの作品もございます。) |
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| \24,000 (額装済) | |
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| \79,000 (額装済) | |
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ローランド・P・ビーモント中佐 RAF (1920− ) バトル・オブ・ブリテン以前のフランス駐屯の時から、参戦しました。はじめは、ハリケーンで戦いましたが、'42年秋からタイフーンの609飛行隊長として活躍します。撃墜数は10機です。 ロケットによる対地攻撃を、タイフーンは、得意としてました。 DSO、DFC を授与され、戦後は、テストパイロットとして、英国初のマッハ2の壁を越えたことでも、有名です。 |
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| \43,000 (額装済) | |
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スタンフォード・タック中佐 RAF (1916− ) 2回の空中衝突と4回の墜落を体験し、ダンケルク撤退の空中支援では、2日間で、敵機5機を撃墜し、エースとなります。 総撃墜数29機のスコア−を、'42年1月に樹立したあと、 北フランスで、対空砲にやられ、捕虜になります。'45年1月に脱走に成功し、イギリスに帰還しました。英連邦で7位のエースです。 |
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| ティラー画集 Vol.1 表紙絵 <SOLD OUT> |
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